【東海道五十三次を歩く旅:予習編】第2回 第一の宿場町「品川宿」—江戸庶民が熱狂した一大レジャースポットの歴史

日本橋を発った旅人が、東海道で最初にたどり着くのが第一の宿場町「品川宿(しながわじゅく)」です。
ここは単なる宿泊地にとどまらず、江戸湾を一望できる美しい景勝地であり、江戸庶民が日帰りで楽しむ一大レジャースポットでもありました。
今回は、品川宿の成り立ちや、旅を支えた宿泊施設の仕組みについて予習していきましょう。


目次

2宿から3宿へ:発展とともに拡大した品川宿の範囲

江戸時代初期の慶長6年(1601)、品川宿が「東海道の第一宿」として指定された当初は、目黒川を境にして北側の「北品川(本宿)」と南側の「南品川」の2宿体制でスタートしました。

しかし、江戸の街が急速に発展するにつれて、さらに江戸(高輪)に近いエリアが大きな賑わいを見せるようになります。
そこで享保7年(1722)、北品川のさらに北側に位置する新しい町が「歩行新宿(かちしんしゅく)」として正式に宿場へ加わること(加宿)となりました。

こうして品川宿は「北品川宿」「南品川宿」「歩行新宿」の三宿で構成される巨大な宿場町へと進化を遂げたのです。
現在の鉄道駅でいうと、京急線の「北品川駅」から「青物横丁駅」あたりまでが、かつての品川宿の広大な範囲に相当します。

ミニ雑学:歩行新宿が生まれた背景には「高輪牛町」があった?
なぜ江戸寄りのエリアがそこまで賑わい、新しく「歩行新宿」が作られることになったのでしょうか。その鍵を握るのが、現在の高輪ゲートウェイ駅周辺にあった「高輪牛町(たかなわうしまち)」の存在です。

江戸時代初期、幕府は江戸の街づくりのために京都から牛車と牛飼いを呼び寄せ、この地に住まわせました。
高輪は江戸の玄関口(高輪大木戸)のすぐ手前。
物資の輸送拠点として、また江戸を出入りする人々で、昼夜を問わず凄まじい活気に満ちていました。

この高輪牛町の圧倒的な賑わいが、南隣にある品川宿の方へとじわじわと拡大していき、その間にできた新しい町が、のちの「歩行新宿」へと発展していったのです。


本陣・脇本陣・旅籠屋・木賃宿:宿場の宿泊施設の違いとは?

品川宿をはじめ、東海道の宿場町には利用者の身分や目的に応じた様々な宿泊施設が存在していました。
ここで、それぞれの役割を整理しておきましょう。

  • 本陣(ほんじん) 大名や公家、幕府の役人など、最高位の身分の人々だけが泊まることを許された公認の特別ホテルです。
  • 品川宿では、天保14年(1843)の記録によると「北品川宿」に1軒置かれていました。

  • 脇本陣(わきほんじん) 本陣が他の大名で塞がっているときなどに予備として使われた高級宿です。
    品川宿には「南品川宿」と「歩行新宿」に1軒ずつ、計2軒が存在していました。

  • 旅籠屋(はたごや) 大名の家来や一般の旅人が広く利用した、食事付き(一泊二食)のスタンダードな旅館です。

  • 木賃宿(きちんやど) 自炊を基本とする最も安い簡易宿泊所です。
    宿代として薪の代金(木賃)だけを支払うシステムだったことからこの名がつきました。

「飯盛り女」と賑わう旅籠:天保の記録が語る繁華街の素顔

品川宿の大きな特徴は、旅籠屋や茶屋の数が非常に多かったことです。
天保14年(1843)の記録によると、品川宿には「飯盛り女(めしもりおんな)」と呼ばれる給仕や接客を行う女性を抱えた旅籠屋が、なんと92軒もあったとされています。

この数字からも、品川宿が単に旅の途中で眠るためだけの場所ではなく、夜遅くまで賑わう華やかな歓楽街としての側面を強く持っていたことが伺えます。


江戸庶民のオアシス:釣りや潮干狩り、御殿山の四季を愉しむ

品川宿は、旅人だけでなく「江戸の街から日帰りで遊びに来る人々」にとっても憧れの一大レジャースポットでした。
目の前に美しい江戸湾(品川海)が広がっていたため、多くの庶民が釣りや潮干狩りを楽しむためにこの地を訪れました。

さらに、宿場のすぐ近くにある「御殿山(ごてんやま)」は、江戸屈指の名勝地として知られていました。
春には見事な桜が咲き誇るお花見スポットとして、秋には美しい紅葉狩りの名所として、シーズンになると大勢の行楽客で埋め尽くされたといいます。


まとめ

目黒川を挟んだ小さな2つの宿場から始まり、歩行新宿を飲み込むほどに巨大化した品川宿。大名たちが威厳を正す本陣から、庶民がどんちゃん騒ぎをした旅籠屋、そして四季の自然を愛でる行楽地まで、あらゆる要素が詰まったエネルギッシュな場所でした。

日本橋を出発して最初の関門であり、お楽しみでもあった品川宿の活気を感じながら、歴史の道を歩いてみませんか?

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