みなさん、こんにちは!旧東海道を自らの足で制覇する「女子ひとり歩き旅」。
第7区となる今回は、川崎宿(川崎駅)~京急鶴見駅までを歩きます!
現代の川崎といえば、賑やかな駅前や近代的なビル群のイメージが強いかもしれませんが、一歩旧東海道に足を踏み入れると、そこはかつて多くの旅人が行き交った歴史の通り道。
「今日はどんな新しい発見や、素敵な景色に出会えるかな?」 女子ひとり旅ならではのマイペースさで、スマホを片手に歴史の面影を探すお散歩へ。それでは、川崎宿の旅、スタートです!
JR川崎駅北口から東海道歩きをスタート


JR川崎駅の北口を出たら、川崎ダイスとMORE’Sの間の道を進みます。

この「いさご通り」の看板が見えたら、曲がって、この通りに入って東海道歩きスタート!

この案内図を見て、今いるのが川崎宿のちょうど真ん中くらいだということが分かりました。
「教安寺」を少し過ぎたところくらいが、川崎宿の終わりなようです。

川崎宿のマンホールがありました!
前回紹介した「東海道かわさき宿交流館」でマンホールカードが頂けるようです。

道右側にある建物のガラス部分に、「佐藤本陣(上の本陣)跡地」の説明書きがさりげなく掲示されています。
十四代将軍・徳川家茂が京都に上洛する際に佐藤本陣に宿泊したと言われていると書かれています。

次の横断歩道で反対側(進行方向左手)に渡ると「佐藤惣之助誕生の地」のモニュメントがあります。
「佐藤惣之助」ってどなた?と思ってしまったのですが、川崎市出身の詩人で、私が知っているものでは阪神タイガースの球団歌「六甲おろし」を作詞した方なのだそうです。
「佐藤」という名前に、「もしや!?」と思ったのですが、佐藤本陣(上の本陣)の次男として誕生されたそうです。

「小土呂橋」の交差点が現れるので、渡ります。


渡った先に「小土呂橋(こどろばし)」の親柱(擬宝珠)があります。
昔はここの通りに5mほどの川があり、写真のように「小土呂橋」がかかっていたそうです。


歩きを進めて、三つ目の角を右に曲がり「教安寺」に立ち寄りましょう。
山門の左側に、川崎宿の富士講信者が天保11年(1840)に建てた石灯籠があります。

元の道にもどって歩いていくと、電柱に「川崎宿京入口 ここ」とありました。
「川崎宿京ってなんだ?」とちょっと思いましたが、おそらく川崎宿の京都側という意味っぽいです。
すっかり忘れていましたが、「教安寺」を通り過ぎて少し行ったところ、ここまでが川崎宿でした。

後ろに移っている「まいばすけっと」の所に川崎宿京口の説明版がありました。
この辺りに見附とよばれる出入口があり、その日宿泊する大名の関札が掲げられていたそうです。


少し歩くと「川崎小学校」があるので、サクッと寄り道しましょう。
「川崎小学校」の信号があったら、左に曲がります。

サクッと寄り道したのは、この「川崎小学校 わたしたちの先輩」のこの説明板を見るためでしたー
先ほどの佐藤惣之助さんも川崎小学校の出身だったのですね。

ちなみに川崎駅東口駅前広場には「坂本九歌碑」設置されています!


元の道に戻って、左側、「馬場病院」のところに「芭蕉ポケットパーク」があるというので、立ち寄ってみたのですが、工事中なのかフェンスがあって柱だけしか見えませんでした。

さらに歩くと右側、日進町町内会館に会館名が「麦の郷」となった由来の説明板と江戸時代後期の「芭蕉の句碑と川崎宿絵図」がありました。
絵図の所にかかれている説明文によると、このあとに見る「芭蕉の句碑」は元々は宿場の入り口付近に文政13年(1830)地元の俳人である一種によって建立されたものだとのこと。


少し歩くと「芭蕉の句碑」がありました。
松尾芭蕉は元禄七年(1694)江戸深川の庵を出立して、故郷である伊賀へ向かう帰路に川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの別れを惜しんで「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」と詠みました。
石碑の文字は、当時「天保の三大俳人」の一人と称されていた桜井梅室直筆で文字を書いてもらい、それをもとに一種がこの句碑を建立したようです。一種は、この梅室の門下生だったと考えられています。

句碑の後ろが線路で、歩くとすぐ京急八丁畷駅に着きます。
駅前で道が不自然に三叉路に分かれているので、「どこが東海道!?」と迷いますが、踏切を渡って左の道に進んでください。

踏切を渡ると「旧東海道」と書かれた石があるので、この道が東海道であるとわかると思います。

「八丁畷(はっちょうなわて)」という地名や駅名ですが、当時のこの周辺は、見渡す限りの広大な田んぼ。
川崎宿京口から八丁(約870メートル)にわたって、田んぼのなかにまっすぐ伸びる一本道(畷)が続いていたことから、「八丁畷」と呼ばれるようになったのが由来だそうです。

道を挟んで向かい側に「無縁塚」があります。
戦後の道路工事に際し、この一帯から数十体の人骨が出土。
鑑定の結果、江戸時代のものであることが明らかになりました。
当時の記録から、川崎宿は震災や大火、洪水、飢饉、疫病などの災厄によって多数の犠牲者を出していたことが分かっています。
出土した人骨は、これら一連の災害で命を落とした身元不明の人々であり、当時、宿場のはずれの並木の下に合葬されたものと推測されています。
供養のために昭和九年(1934)に建てられた慰霊塔がこの「無縁塚」です。

こんな感じの道を歩いていきます。(できれば右側を歩いてください)

写真の「林青果店」さんを右に曲がった所(側面)に「市場の夫婦(女夫)橋」の案内板があります。
知らないと普通に通り過ぎてしまうと思うので、要チェックです。


「なぜ夫婦橋というのかな?」と思っていたのですが、橋が2本並んで架かっていたのですね。

「市場の夫婦(女夫)橋」の案内板をみた後、ここでもしや右か左に曲がったりするんだろうかと迷いましたが(八丁畷駅の所がかなりひっかけだったので)、少し道幅が狭くなってますが、まっすぐ進むのが正解です。

まっすぐ歩くと一面横断歩道の場所があります。この右側が「横浜熊野神社」なので、立ち寄りましょう。

「熊野神社」は、弘仁年間(810〜824年)に紀州の熊野本宮大社から御分霊を迎えたと伝わる、1200年以上の歴史を持つ古社です。
江戸時代、神社は東海道のすぐ脇に位置していました。近くには川崎宿の境界である「八丁畷」があり、旅人たちが道中の安全を祈って手を合わせる、街道の重要な守り神でした。
日本初の鉄道が敷設される際、なんと臨時の線路計画が熊野神社の境内を直撃することになってしまい、神社を失うわけにはいかない地域の人々は、建物の下に丸太を敷き並べ、本殿をそのまま人力で引っ張って現在の場所へと遷座(移転)させたそうです。すごいですよね。

熊野神社から「京急鶴見市場駅」を越えて第一京浜に出ると、箱根駅伝の往路の1区と2区の鶴見中継ポイントに作られた「箱根駅伝記念像(明日へ走る)」があります。
Googleマップの「見どころ」に登録していますので、良かったら立ち寄ってみてください!

東海道に戻ってまた歩いていき、「市場西中町一里塚公園」に立ち寄ります。

公園には「市場村一里塚」の石碑があります。
一里塚とは、江戸時代に幕府が主要な街道を整備した際、一里(約4キロメートル)ごとに街道の両側に築いた大きな土塚のことです。
塚の上には日よけとなる「榎(えのき)」などの木が植えられ、旅人にとっては距離の目安としてだけでなく、木陰で息をつく絶好の休憩場所となっていました。
ここ「市場一里塚」は、東海道の起点である江戸・日本橋から数えて、ちょうど五里目にあたる塚です。

市場一里塚から少し歩くと、右手に「庚申堂」が見えてきます。
鶴見市場だけでなく、旧東海道などの古い街道を歩いていると、よくこうした庚申堂や庚申塔に出会います。
これには主に2つの理由があります。
①「道守り(旅の安全)」の神様
庚申信仰は、のちに日本の道の神様である「猿田彦神」と結びついたため、「旅人の道中を災いから守る神様」として街道沿いに多く建てられました。
② 村の境界(結界)
昔は、村の外から悪い病気や悪霊が入ってくると信じられていたため、村の入り口や境界に庚申堂を建てて、「ここから先に悪いものを入れないためのバリケード」の役割を持たせていました。
この鶴見市場の庚申堂も、宝暦4年(1754年)の建立から270年以上もの間、東海道を行き交う旅人の安全を祈り、村へ災いが入らないよう見守り続けてきました。


「鶴見川橋」を渡ります。
「鶴見川橋」は徳川家康が東海道を整備した慶長六年(1601)ごろに架けられたと言われており、日本橋をあとにした旅人が東海道で初めて渡る橋でした。
鶴見川は「暴れ川」と呼ばれ、洪水によって橋は流されて架け替えられてきたそうです。
現在の橋は平成八年(1996)に架けられたものです。

橋を渡り切って少し歩いた左側に「鶴見橋関門旧関」があります。
安政六年(1859)6月、横浜開港に際して、神奈川奉行は攘夷派浪人が外国人に危害を加えることを防ぐため、横浜への主要道路筋の要所に関門や番所を設けて、横浜に入る者を厳しく取り締まりました。
その横に東海道が開かれたときの地名「鶴見村三家」の表示杭があります。
この地に最初に3軒の家(百姓)が移り住んだことに由来すると伝えられています。

少し歩いて右手の「鯉ヶ渕公園」のところに「寺尾稲荷道」の道標があります。
ここが寺尾稲荷社(現・馬場稲荷)へに向かう道への分岐点だったようです。
この道標は複製で、当時の道標は鶴見神社境内にあります。

写真がちょっと曲がっていて、すいません。
今回のゴールの「京急鶴見駅」まではこんな感じです。

横浜市鶴見図書館前に「旧東海道解説版」があります。


「鶴見駅東口入口」の信号を過ぎたら、最初の道を右に曲がって「鶴見神社」に寄り道しましょう。
先ほどの「寺尾稲荷道」の道標の本物が境内にあります。


元の道にもどって「ラーメンショップ」がある所には、かつて「信楽茶屋」がありました。
「信楽茶屋」は東海道の立場(宿場と宿場の間にある間の村で人や馬が休憩したところ)として栄え、鶴見村の中で最も大きな茶屋でした。

道をこのまま歩き続けると「京急鶴見駅」に着きますが、道沿いに案内板がいくつかあります。
これは江戸時代に鶴見村の名主を務めた「名主・佐久間家」の案内板。
平成13年(2001)までは屋敷の建物があったようです。
割と最近まであったのに、なくなってしまって残念です。

道を挟んでほぼ反対側に「鶴居堂」の案内板があります。
「鶴居堂」は咳の特効薬「苦楽丸」で街道筋で有名だったそうです。



京急鶴見駅に到着です!
ゴールには着きましたが、川崎宿と神奈川宿の間の「間の宿」であった鶴見で名物だった「よねまんじゅう」が買えるお店があるので、寄っていきましょう。
写真の所で左に曲がります。


御菓子司「清月」さんで「よねまんじゅう」を買うことができます。


一般的な蒸したお饅頭をイメージしていたのですが、薄いお餅であんこをくるっと巻いて、両端をきゅっと閉じた小判のような形をしています。
生地にはお米の粉が使われているため、すあまのような感じの味でした。
一口で食べられてしまうので、いっぱい食べてしまいました。おいしかったです!
ちなみに米粉を使っているから「よねまんじゅう」なのではなく、よねまんじゅうを売り始めた茶屋の娘の名前が「よね」だったからだそうです。

