みなさん、こんにちは!東海道五十三次をトコトコとひとり歩き中のとももです。
第9区となる今回は、「東神奈川駅」から「京急神奈川駅」へと向かいます!
「え、お隣の駅だし、歩いたらすぐそこじゃない?」と思ったそこのあなた。
実は今回の区間、移動距離こそめちゃくちゃ短いのですが、その中に歴史スポットや見どころがこれでもかとギューッと凝縮されているんです。
見どころを効率良くまわるならGoogleマップのナビが便利ですが、せっかくなら「ちゃんと東海道のルートも歩きたい!」という方も多いはず。
そんな方は、JR東神奈川駅の東口を出たらまっすぐ進み、前回ご紹介した「吉田飯店」の手前を右に曲がってみてください。そのまま道なりに進むと、右手にこの記事のルートとの合流地点である「宮前商店街」が登場しますよ!
それでは、第9区も元気に出発でーす!
JR東神奈川駅東口から東海道歩きをスタート

JR東神奈川駅東口を出たら、まっすぐ進んで、右手にあるセブンイレブンの前の道を右に曲がります。
(JR東神奈川駅の近くに京急東神奈川駅もあります)
熊野神社


熊野神社は、平安末期に紀伊の熊野権現を招いたことによると言われています。
元々は権現山にありましたが、江戸中期に金蔵院境内に移り、神仏分離令により金蔵院から分かれました。

熊野神社の狛犬は 嘉永6年(1853)に奉納されたもので、鶴見村の名石工として知られる「飯島吉六」によって彫られました。
横浜大空襲の戦災なども奇跡的にくぐり抜けており、長年の風雪に耐えた味わい深い風情を漂わせています。
金蔵院

現在は熊野神社の北側にありますが、江戸時代には東西に並んでいました。
当時の境内は今よりもずーっと広かったのだとか。
高札場


熊野神社と金蔵院の間の道を進んでいくと、松並木が見えてきます。
さらに松並木の中を歩くと左手に高札場が現れます。
かつての神奈川宿の高札場はここではなく、神奈川警察署の西側あたりにありました。
この高札場は、資料をもとに復元したものです。
神奈川地区センター


(左の写真は裏側の入り口)
高札場は実は神奈川地区センターの前にあります。
神奈川地区センターに神奈川宿関係の資料が置かれていたり、パンフレットがゲットできるので、立ち寄るのがおすすめです。神奈川台場の模型もありますので、要チェックです。
成仏寺


元の道に戻って歩いていくと右手に成仏寺があります。
成仏寺は鎌倉時代の創建と伝わります。
安政六年(1859)の開港当時はアメリカ人宣教師たちの宿舎に使われ、本堂をヘボンが、庫裡をブラウンが使用したとされています。
※サミュエル・ロビンス・ブラウン(Samuel Robbins Brown)は、1859年に来日した宣教師。神奈川の成仏寺に居を構えて 聖書の翻訳や日本語研究、教育(ブラウンは、ヘボン、フルベッキとともに明治学院の基礎を築いた)に多大な功績を残しました。
慶運寺



慶運寺は開港当時にフランス領事館として使われました。
浦島太郎が乙姫から頂いて竜宮城から持ち帰った玉手箱や観音菩薩像など、この地域に伝わる浦島伝説にちなむ遺品が伝わり、「浦島寺」と呼ばれています。
※御宿場印はこちらで販売しています。他にも販売している施設多数あり。
浄瀧寺


開港時にはイギリス領事館に使われ、本堂をはじめとして諸所にペンキが塗られたと言われています。
「滝ノ橋と本陣跡」の説明板


慶運寺から浄瀧寺へ向かう際に渡る「滝の川」。江戸時代、この川を境界線として、それぞれの町に本陣が置かれていました。
江戸側には「神奈川本陣」、そして川を挟んだ反対側には「青木本陣」が配置され、宿場町としての中心的な役割を果たしていました。現在は何気なく渡ってしまう川ですが、当時は町の重要な境目だったことが分かります。
前方に見える青い橋は「滝の橋」で、当時からずっと同じ位置に架けられています。
神奈川宿の風景が描かれた江戸時代の地誌(名所図会)『金川砂子(かながわすなご)』の絵を見ると、この滝の橋の左脇に「高札場」が描かれているのが分かります。
先ほど復元された高札場をご案内しましたが、江戸時代に実際に置かれていたのは、この場所だったのです。
神奈川の大井戸

宗興寺の脇にあります。
この井戸は、江戸時代には東海道中の名井戸に数えられ、宗興寺は「大井戸寺」と呼ばれていました。
宗興寺に滞在したアメリカ人宣教医シモンズやヘボンもこの井戸水を使用していました。
宗興寺 / ヘボン博士施療所跡


開港当時、アメリカ人宣教師で医師であったヘボン博士がここに施療所を開いていました。
ヘボン博士は、日本初のアメリカ式辞書『和英語林集成』の編纂や、現代でも広く使われている「ヘボン式ローマ字」の考案者として広く知られている人物です。
宮前商店街


続いて「宮前商店街」を進んでいきましょう。
この商店街は旧東海道にあたるため、ここを歩くことで再び東海道のルートへと戻ることができます。
洲崎大神


源頼朝が安房国の安房神社の神をこの地に招いたのが洲崎大神の始まりだと伝わっています。
昔この神社にあった御神木のアハキがなまって青木町の町名になったと言われています。
(滝の橋を境界線として、洲崎大神がある側が青木町)
普門寺


寺号の「普門」は洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したことにより、多くの人々に救いの門を開いているという意味で名付けられたと言われています。
甚行寺

開港当時、本堂は土蔵造でしたが、改造を加えてフランス公使館として使われたと言われています。

商店街を抜けると「京急神奈川駅」に着きます。
お疲れ様でしたー!と言いたいところですが、もう1か所だけ立ち寄らせてください。


「青木橋」を渡って丘の上にある「本覚寺」に立ち寄ります。
本覚寺


開港当時、アメリカ領事館として使われました。アメリカ領事ドーアは、庭の松の枝を払い落して星条旗を掲げ、寺の正門を白いペンキで塗り、本堂の中を板で囲って、一般人の立ち入りを禁止したと伝わっています。

本覚寺の境内に建てられているのは、安政5年(1858年)の日米修好通商条約の締結で、アメリカ総領事のハリスと熱い交渉を繰り広げた「岩瀬忠震(いわせ ただなり)」を記念する石碑です。
当時、アメリカの初代総領事だったハリスは、百戦錬磨の外交テクニックで日本に条約を迫ってきました。そんなハリスの前に、幕府の外交担当として毅然と立ちはだかったのが、この岩瀬さんです。
実は条約の文面上では、開港場所は「神奈川」と決められていました。 でも、武士(攘夷派)と外国人が東海道で鉢合わせして衝突するトラブルを何としても防ぎたい幕府は、大きな壁にぶつかります。
そこで岩瀬さんは、「だったら、神奈川宿の対岸にある静かな漁村(いまの横浜の開港エリア)に港を作っちゃおう!」というアイデアを思いつきます。 当然、ハリスは「話が違うじゃないか!」と大反対。しかし岩瀬さんは、「いやいや、そこも神奈川のすぐ近くだから実質セーフです!(出張所みたいなものです!)」と強引なロジックで見事に押し切ってしまったんです。こうして、現在の横浜港を開く流れが作られました。
あまりの頭の回転の速さにハリスもタジタジだったようで、日記にも「(岩瀬は)非常に鋭く、私が答弁に苦しむほどだった」と、敵ながら大絶賛する言葉を残しているほどです。
権現山

(本覚寺から撮影)
宮前商店街を歩いている時、右手に広がる寺社の背後が丘になっていましたが、かつてはあそこに「権現山」という大きな山がありました。
実は「本覚寺」がある山と、あの丘はもともと一続きのひとつの山だったんです。
それがなぜ今のような姿になったかというと、「埋め立て」です。
幕末から明治時代にかけて、大急ぎで建設された「神奈川台場(砲台)」や、新しく通す「鉄道用地」を埋め立てるために、大量の土が必要になりました。
そこで、この権現山が目をつけられ、ごっそりと切り崩されてしまったのです。
そうして無事に土地が整い、明治5年(1872年)に新橋〜横浜間で日本初の鉄道が開通します。
この鉄道を通す際、線路によってすっぱりと分断されてしまった東海道を再び結ぶために、鉄道をまたぐ形で架けられた橋こそが、さっき私たちが渡ってきた「青木橋」です。
今回はここまでです。お疲れ様でした!

