【東海道五十三次を歩く旅:予習編】第4回 第三の宿場町「神奈川宿」—海風を感じる大集積地!二つの本陣とペリー来航の歴史ロマン

こんにちは!東海道を歩く旅を進めている「ともも」です。

前回の第二の宿場町「川崎宿」をあとにし、さらに西へと進むと見えてくるのが、第三の宿場町「神奈川宿」です。現在の横浜市神奈川区にあたるエリアです。

現代の「横浜」といえば洗練された港町のイメージが強いですが、江戸時代の神奈川宿は、東海道有数の規模を誇り、幕末の歴史を大きく動かした極めて重要なスポットでした。

今回は、実際に歩く前に知っておくと街歩きが何倍も深く、面白くなる、神奈川宿の魅力と歴史のドラマをご紹介します。

目次

陸と海が交わる場所!神奈川宿の基本データ

慶長6年(1601)、徳川幕府が宿駅制度を定めた当初から設置されていた神奈川宿。
実はここ、単なる街道沿いの宿場町ではなく、すぐ目の前に「神奈川湊」という大きな港が広がる、陸路と水路のハイブリッド拠点でした。

東海道を行き交う旅人だけでなく、海からも多くの物資や文化が集まるため、非常に活気のある大宿場町として栄えたのです。

天保14年(1843)の記録によると、その規模はかなりのものでした。

  • 街並みの長さ:江戸見附(入り口)から上方見附(出口)まで約4キロ(品川宿に匹敵する長さです)
  • 宿場の規模:人口5,793人、家数1,341軒、旅籠(はたご)約58軒、本陣2軒、脇本陣0軒

約4キロにわたって店や旅籠がずらりと並ぶ様子からは、当時の圧倒的な賑わいが想像できます。

川を挟んで分立していた「石井本陣」と「鈴木本陣」

神奈川宿の大きな特徴のひとつが、大名たちが宿泊する最高級施設「本陣」が2軒あったことです。 興味深いのは、その2軒が宿場内を流れる滝の川を挟んで、それぞれの町に分かれて配置されていた点です。

  • 神奈川町(川の手前):石井本陣
  • 青木町(川の先):鈴木本陣

神奈川宿はもともと、複数の町が合わさってできた南北に長い宿場でした。
そのため、それぞれの町が競い合うように旅人をもてなしていたと言われています。
脇本陣がゼロであったのも、この強力な2軒の本陣が宿場全体を支えていたからだと言えます。

旅人の目当て、神奈川宿の「3大名物」

街道を歩く旅において、ご当地の名産品は欠かせない楽しみです。
江戸時代のガイドブックにも掲載されていた、神奈川宿の3大名物がこちらです。

  1. クロ薬(くすり) 「万病に効く」とされた神奈川宿特産の和漢薬。旅の道中のお守り代わりに買い求める人が多くいました。

  2. 生魚(なまうお) 目の前に神奈川湊が広がっているため、とにかく魚が新鮮でした。宿場の食事処では、獲れたての地魚が旅人たちの疲れを癒やしていました。

  3. 亀甲煎餅(きっこうせんべい) カメの甲羅の形を模した香ばしいお煎餅。日持ちがしてお土産に持ち帰りやすいため、街道歩きのお供として大人気を博しました。

歴史が動いた!ペリー来航と神奈川宿の激動

神奈川宿を歩く上で、絶対に外せないのが幕末の激動のドラマです。ここを知っていると、街歩きの際に見かける「お寺」の風景が、歴史の重要な舞台へと変わって見えます。

幕府の苦肉の策、東海道を避けた「横浜開港」の真相

嘉永6年(1853)、黒船を率いたペリーが来航し、日本に開国を迫りました。翌年、幕府とアメリカが「日米和親条約」を結んだのは、まさにこの神奈川宿の目と鼻の先(現在の横浜開港資料館周辺)のことでした。

その後、本格的な貿易を開始するために「日米修好通商条約」が結ばれ、条文にははっきりと「神奈川を開港する」と明記されました。

しかし、ここで幕府は大きな難題に直面します。 当時の神奈川宿は東海道の要所であり、参勤交代の大名行列や、外国人排斥を唱える血気盛んな武士(攘夷派)が日常的に行き交うメインストリートでした。もしここに外国人が居住すれば、武士との間で刃傷沙汰の衝突が起きることは火を見るより明らかだったのです(実際、のちに近環境で「生麦事件」が発生し、この懸念は的中することになります)。

そこで幕府は、東海道から外国人を遠ざけるための苦肉の策に打って出ます。神奈川宿の対岸に位置していた、当時はわずか100軒ほどの小さな漁村に過ぎなかった「横浜村」に目をつけ、「横浜も神奈川港の範囲内であり、地続きの一部の集落である。したがって、横浜を開港しても条約違反にはならない」という強引な論理を主張し、こちらを急ピッチで開発し始めたのです。

アメリカ総領事のハリスらは「約束が違う。外国人を隔離するための地だ」と猛烈に抗議しました。ハリスは抗議の意志を示すため、あえて横浜へは移らず、神奈川宿の本覚寺にアメリカ領事館を構え続けたほどです。

しかし、幕府は外国政府の抗議を押し切り、横浜村の突貫工事を強行します。立派な波止場や外国人のための商館を建設し、商人たちに優遇措置を与えて市場を活性化させました。結果として、設備が整った横浜に海外の商人たちが次々と集まるようになり、外国政府もなし崩し的に横浜の開港を認めざるを得なくなったのです。これが、現在の国際都市・横浜が誕生したドラマチックな背景です。

宿場町がまるごと国際エリアに!接収されたお寺の数々

ハリスをはじめとする外国の使節団は、当初「約束通り神奈川宿に居住する」と主張したため、宿場内にある格式高いお寺が、次々と諸外国の領事館や宿舎として接収されることになりました。

当時の神奈川宿は、異国情緒と緊迫感が隣り合わせになった、極めて特殊なエリアとなったのです。

  • 本覚寺(ほんがくじ):アメリカ領事館として接収。庭の松の枝を払い落して星条旗を掲げ、山門もペンキで白く塗られてしまいました。

  • 成仏寺(じょうぶつじ):アメリカ式辞書『和英語林集成』の編纂や「ヘボン式ローマ字」の考案者として知られるヘボン博士や、ブラウン、シモンズといったアメリカ宣教師たちの宿舎となりました。

  • 宗興寺(そうこうじ):ヘボン博士が成仏寺から通い、西洋医療をおこなった施療所(治療所)が置かれました。

  • 甚行寺(じんぎょうじ):フランス公使館として接収されました。本堂は土造りでしたが、改造して公使館として利用しました。

  • 長延寺(ちょうえんじ):オランダ領事館として使用されました(神奈川宿の跡地には碑が建てられています)。

  • 浄瀧寺(じょうりゅうじ):イギリス領事館として使用。本堂など諸所にペンキが塗られたと言われています。

静かなお寺の境内に外国人が出入りし、その周囲を幕府の役人や武士が警護する……そんな緊張感に満ちた光景が、この約4キロの宿場町の中で日常的に繰り広げられていました。

海に浮かぶ要塞「神奈川台場」とは?

外国人がやってくるということは、同時に「いつ戦闘になるかわからない」という防衛上の緊張感も高まったことを意味します。

そこで幕府は、伊予松山藩に命じて、神奈川宿のすぐ目の前の海に巨大な大砲の陣地(砲台)を建設させました。これが「神奈川台場」です。

現在では埋め立てが進み、街の中に石垣の一部が残るのみとなっていますが、この「海に浮かぶ要塞」にまつわるロマンと、現在の隠れた見どころについては、別の記事でじっくりとご紹介します。

ともものまとめ

現在の神奈川宿周辺は、第一京浜(国道15号)が走り、都会的な街並みへと姿を変えています。

しかし、約4キロもあった長い宿場の面影を意識しながら歩くと、「ここを大名行列が通ったのだな」「このお寺に外国人の領事たちがいたんだな」と、あちこちに確かな歴史の足跡を見つけることができます。

海風を感じながら、江戸の活気と幕末のエネルギーに思いを馳せる神奈川宿ウォーク。
それでは、実際のルートガイドもお楽しみに!スマホを片手に、一緒に素敵な東海道の旅を楽しみましょう。

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