「戸塚の地名の由来って、どこから来ているかご存知ですか?」
今回のルートを歩いて行くと、まさにその答えとなるスポットが登場します!
今回は戸塚宿の続きを歩いて行きます。宿場内にあった3つの問屋場をすべてコンプリートし、数々の見どころスポットを経て、藤沢宿へ。
Googleマップに載っていない案内板も多いので、写真とともにルートを解説しながら紹介していきます!
戸塚駅東口を出て東海道歩きスタート
戸塚駅の東口を出たら左に曲がり、さらに写真のスポーツクラブNASを左に曲がって前回からの続きを歩いて行きます。(写真右側の方に渡っておいてください)

戸塚宿の御宿場印を購入する場合は、戸塚駅東口にある戸塚モディ2階にある「純喫茶モネ」で購入してから東海道歩きをスタートしましょう!そちらで戸塚宿の散策マップを入手するのがおすすめです。

歩き始めると、さっそくポストの横に「吉田町問屋場跡」があります。
(前回は「矢部町問屋場跡」を通りましたね)
利用者がどんどん増え、ひとつの町だけでは捌ききれなくなってしまったため、隣の「矢部町」と「吉田町」を加えた三町へと宿場が拡張されました。
宿場が三町になったことで、もともと戸塚町に1軒しかなかった問屋場も、各町に1軒ずつの計3軒へと増設され、月の中で交代で義務を果たすようになりました。
吉田町の問屋場は毎月5日から11日までを担当していたそうです。

歩いて行くとすぐ線路にぶつかるので、歩道橋を渡ります。
渡る前に麓に「東海道戸塚宿周辺散策案内」板があります。

自分は横浜が地元でよく電車でここを通っていたので、大踏切懐かしいです。


案内板は2つあります。見どころを予習できるので、結構ありがたいです。(片方はもうほぼ歩き終わったルートだけど)

気になるこの浮世絵に描かれている「お軽」と「勘平」は、歌舞伎の演目「仮名手本忠臣蔵」の登場人物で、人気がある悲恋のカップルだそうです。東海道の難所であった「戸塚の山中」を舞台に、二人が京都へ落ち延びていく道行のシーンがあるとのこと。


歩道橋を渡って線路を超えると、さらにもう1回歩道橋が現れます。
写真右の奥の方へ渡って、「清源院」に立ち寄ります。


「清源院」は徳川家康の側室 お万の方のゆかりのお寺です。
徳川家康の側室 で「お万の方」と呼ばれるのは、結城秀康の母である長勝院、徳川頼宣・頼房の母である「養珠院」がいらっしゃいますが、この2人とは別の「お万の方」だそうです。
本尊は徳川家康から拝領したと言われる「歯吹阿弥陀如来像」です。
墓地最上部にはお万の方の遺骸火葬跡の碑があるようです。

境内には「松尾芭蕉の句碑」があります。

清源院を出たら、トツカーナ裏の大きい道をひたすら歩いて行きます。

「バスセンター前」の信号を渡った、スルガ銀行横浜戸塚支店前に「内田本陣跡」があります。
戸塚宿には本陣が2軒あったので、そのうちの1軒です。

少し歩くと道反対側のビル前に「戸塚町問屋場跡」があります。(Googleマップには載ってません)
ここが元々は1軒しかなかった問屋場です。これで戸塚宿の問屋場跡は3つすべて登場しました。
戸塚町問屋場は毎月12日から月末を担当していました。他の町の問屋場よりは期間長いですね。

また反対側に戻ると「脇本陣跡」があります。
戸塚宿には3軒の脇本陣があったので、そのうちの一つです。

そのまま右側を歩いて行くと、消防署の手前に「 澤邊本陣跡」があります。
戸塚宿にあった2つの本陣のうちの一つで、明治天皇東下の際には行在所にもなりました。
本陣創設時の当主 澤邊宗三は戸塚宿開設の際に幕府に強く働きかけをした人物です。

敷地の一角に澤邊家が勧請した「羽黒神社」がひっそりとあります。


消防署過ぎたら現れる坂を上がると「海蔵院」があります。


宿場時代、晩鐘が宿場町に響き渡る音色として親しまれていたそうです。


そのまま東海道の右側の道を歩き続けると「八坂神社」があります。
通称「お天王さま」として親しまれている、戸塚宿の鎮守だそうです。
毎年7月14日に行われる「お札まき」では、女性の着物をまとい白塗りの化粧を施した約10人ほどの男性たちが、五穀豊穣や無病息災の祈願を込めた歌を歌いながら踊りを披露し、七色の厄除けのお札をまきます。
テレビで見て「おもしろいな~行ってみたい」と思っていたので、そのうち行ってみたいと思っています。


さらに右側の道を歩いて行くと、戸塚宿の総鎮守「冨塚八幡宮」があります。
山頂の古墳は冨属彦命の墳墓とされていることから「冨塚」と呼ばれ、歴史を経て、この「とみづか」という言葉がだんだんと「とつか」に変化し、「戸塚」の地名の起こりになったと言われています。

こちらの境内にも松尾芭蕉の句碑があります。


道を左側に渡って歩いて行くと、ローソンの前に「上方見附跡」があります。
戸塚宿の京方の出入口ですので、戸塚宿内はここで終わりです。
こちら(左側)には松が植えられていますが、反対側(右側)には楓の木が昔と同じように植えられているみたいです。(見忘れました)

ここから緩やかですが坂になっていきます。

坂を登り始めるとすぐ右側に「第六天社」があります。
古事記・日本書紀で第六番目に出現されたとされる面足命・惶根尊が祭神です。

「大坂台」の信号を通り過ぎたら、「大坂」の案内があります。
かつては二つの坂から成り立っていたそうです。


少し行ったところの植え込みの中に「大坂」の石碑?があります。こりゃ見逃しちゃいそうですね。

さらに坂を上がっていくと「大坂松並木」の案内があります。
かつては松並木が並んで富士山が見えたそうですが、今は松並木もないし、富士山もみえないです。
さきほどの「大坂」の案内で坂がかつて2つの坂から成っていたと書かれていましたが、これまで数回の改修が行われて、今のなだらかで長い坂になったそうです。

坂を上がり切るとこんな感じの道になっています。


歩道橋を渡ったりして、ずっと歩いて行くと「西横浜国際病院前」のバス停の所に「お軽・勘平戸塚山中道行の場の碑」があります。
この記事の初めの方で紹介した「お軽」と「勘平」の「戸塚動行の場」にちなんで作られた碑です。

緩やかに下り坂になっていきます。日本橋からもう46kも歩いてきたんだなー

結構坂を下がっていくと「原宿一里塚跡」があります。
江戸から11番目の一里塚で、「吹上の一里塚」とも言われています。


「浅間神社入口」の案内柱があり、反対側(右側)に渡ると浅間神社の入り口(鳥居)があります。
永禄年間(1558~1570)に盛んであった富士信仰をもとに勧請されたと言われています。

鳥居の所に庚申塔ありました。

少し歩くと「原宿立場跡」があります。(Googleマップには載ってませんが、セブンイレブンの向かい側)
まだ藤沢宿にはたどり着かないし、当時のハードな大坂を越えて疲れただろうから、ここに立場(休憩施設)があったのは納得ですね。


少し歩くと「大運寺」があります。
徳川家の葵の御紋がありますが、徳川家康が鷹狩りで戸塚を訪れた際、大運寺が休憩所・食事処(御膳所)として使われていたようです。そして増上寺の末寺なんだそうです。
私は徳川家康推しで、毎年家康公検定受験して合格しているほどなんですが、家康は本当神奈川県・静岡県内で鷹狩りによく行ってます(笑)今後も東海道を歩く中で家康の鷹狩りゆかりの場所出てくると思います。

歩道橋渡って反対側に「大運寺入口」の案内柱があります。(Googleマップには載ってません)

掲載しているGoogleマップでマクドナルドの反対側の道で「コ」の字に迂回してますが、実際は迂回せずにまっすぐ歩けます。

原宿の交差点を通り過ぎます。


結構歩くと右手のメルセデス・ベンツ戸塚(ヤナセ戸塚支店)側にかかる歩道橋があります。
その歩道橋の麓に「龍長院入口」の案内があります。(Googleマップには載ってません)

歩道橋を渡って反対側に行くと、龍長院の入り口を示した 「不動明王像」があります。

歩道橋で左側に戻って少し歩くと、この広告看板がありました。
すごい良い!大磯まで五里ということは、20kmくらいあるということかー

広告看板を通り過ぎるとすぐ「影取立場跡」があります。
先ほど原宿立場がありましたが、割とすぐの所にまた立場があるんですね。


また歩いて行くと「諏訪神社」があります。
この周辺は「鉄砲宿」と呼ばれていて、「武人たちの守り神」として、武神として崇められている諏訪神社をこの地に勧請したそうです。


少し歩くと「藤沢バイパス出口」の信号に差し掛かる前に「影取池」の案内板があります。
この地域の影取という地名の由来となった「影取池」は、諏訪神社の奥にあったと伝わっているそうです。


「藤沢バイパス出口」の信号を通り過ぎると、双体道祖神がありました。

この辺りが「鉄砲宿」みたいです。

「鉄砲宿」の案内板がありました。
蛇の絵が描かれていてなんだろう?と思ったのですが、こういった伝承があるそうです。
昔々このあたりにいた長者が自分の蔵に住み着いた大蛇を水神様のお使いとして「おはん」と名付け、大層かわいがっていました。ところが長者の家が没落し、大蛇への餌もままならなくなってきました。それをみた大蛇は長者様には迷惑はかけられないと、近くの池へ去ってゆきましたが、そこには十分な食料が無く、元々大食だった大蛇は空腹に耐えかねると池のほとりを歩く人の影を食べて飢えを凌いでいました。
ところが影を食べられた人はだんだん弱ってしまうので、村人はこの池を影取池と呼んで恐れるようになりました。大蛇を退治しようとしたのですが、鉄砲を見ると大蛇は水底深く潜ってしまうので退治できません。村人は一計を案じ鉄砲の上手い猟師に頼み、昔の長者様のように「おはん」と名を呼びました。昔の飼い主が迎えに来たと思いこんだ大蛇は姿を現すと、ついに撃ち殺されてしまいました。
いつしか影取池は埋められ影取の名と悲しい話だけが残されました。この大蛇を撃った猟師が住み着いたところを鉄砲宿と呼ぶようになったと言います。

右側に渡って歩いて行くと「旧東海道松並木跡」がありました。
案内板によると、昭和35年(1960)頃から全国各地に松喰虫が猛威を振るって、松の大半が枯れて失われてしまったそうです。近代化によって全国各地の松は伐採されたのかなと勝手に思っていたので、勉強になりました。

「遊行寺坂上」の交差点に着きました。
この辺りで「もうそろそろゴールに着かないかなー」と思ってきてしまいますが、もう少し頑張りましょう!


坂を下がっていくと「一里塚跡」があります。
両側の崖上に一里塚があったそうですが、今は何もありません。


案内板もありましたが、「藤沢宿」と書いてあって良い感じです。
案内柱スタイルもありました。

少し坂を下ると「江戸見附」の案内板がありました。
ということはここからが宿場内です。

遊行寺がありますが、今回はスルーします。

写真は別のアングル(橋渡った後に振り返ったアングル)ですが、坂を下っていくと「藤沢橋」があるので渡ります。左に曲がって歩くと、かなり距離はありますが今回のゴールである藤沢駅に着きます。
次回はじっくり藤沢宿をめぐっていきます。お疲れ様でした!

