前回は日本橋から新橋駅までを歩きましたが、第2区目となる今回は、新橋駅から品川駅を目指します。
かつての江戸の南の玄関口「新橋」をスタートし、最初の宿場町である品川宿の入り口前まで歩きます。
都会のビル群の中に隠れた、江戸の面影を探しに行きましょう!
JR新橋駅銀座口を出て東海道歩きをスタート

JR新橋駅の北改札を右手に出ると銀座口です。今回はこちらからスタート。

「SUIT SELECT」の方に信号を渡って、そのまままっすぐ行きます。

大きな交差点に着いたら右に曲がると東海道に復帰します。

しばらく歩いて、架道橋くぐると交差点の斜め先に「日比谷神社」が現れます。
名前に「日比谷」と付いているのに、なぜここに鎮座しているかというと、もともとは現在の日比谷公園の中(旧日比谷御門のあたり)に鎮座していましたが、江戸城の拡張工事、関東大震災後の区画整理、日本テレビなどの再開発に伴い、3回もの大規模な移転を経験し、現在の場所にたどりついたそうです。
日比谷神社は昔から虫歯封じのご利益があると言われています。
虫歯がある方はぜひご参拝を!

こんな感じのビルが立ち並ぶ道をずっと歩いていきます。
(進行方向向かって右側を歩きましょう)

突然右手に「芝大神宮」の社号標が登場しますので、お見逃しなく!
奥に進みます。


江戸時代、人々にとって一生に一度の夢といえば「お伊勢参り」でした。しかし、伊勢(三重県)まで行くのは簡単なことではありません。
そこで、「江戸にいながらお伊勢参りができる」として爆発的な人気を集めたのが、伊勢神宮の神様(天照大御神・豊受大御神)を祀るこの芝大明神でした。
当時の人気ぶりは凄まじく、「西の伊勢、東の芝」と並び称されるほど。東海道を旅する人々にとって、ここは道中の安全を祈願する絶対外せない「超重要スポット」だったのです。

東海道に戻ります。少し歩くと(写真右側)大門駅があります。

そこからすぐ大きな交差点に差し掛かります。
左に行くとJR浜松町です。右に行くと増上寺があります。


右側を覗き込むとすごーく奥の方にこの赤い門が見えると思います。
この門は浄土宗の総本山・増上寺の総門である「大門」です。
この門があまりに象徴的だったため、周辺一帯の地名も「大門」と呼ばれるようになりました。
あまりにも自然に街に溶け込んでいるため、車や歩行者がその下を当たり前のように通り抜けていきますが、実はここからが広大な増上寺の「境内」の始まりを意味しています。
先ほどの交差点で信号を二回渡って対角線へ進みましょう。

字がもう見えない状態なので、こちらは見なくても良いですが、芝エクセレントビル前に「浜松町 町名の由来」の案内板があります。
元禄9年(1696)、それまで名主を務めていた増上寺の代官・奥住久右衛門に代わり、権兵衛という人物が名主になりました。
この権兵衛が遠州(現在の静岡県)浜松の出身であったことから、当時の「久右衛門町」という名前が「浜松町」へと改称されたそうです。

しばらく歩いていくと「金杉橋」があります。
金杉橋は江戸時代からある橋で、赤穂義士が討ち入り後に泉岳寺へ向かう際に渡った橋の一つとも言われています。現在は港区の浜松町と芝を結んでいます。
橋の下を流れる古川(渋谷川の下流)は、多くの屋形船が停泊する場所として知られています。


そこからも道なりに歩いていきますが、しばらくの間見どころスポットが無くて退屈になってしまうかもしれません。そういう方は「西應寺」と地図アプリに入れていってみましょう。
記事の初めに貼っているマップでもピン立ててます。
「西應寺」は幕末期、「最初のオランダ公使宿館(公使館)」が置かれた場所として知られています。
安政5年(1858)に日蘭修好通商条約が結ばれた後、翌年の安政6年、最初の公使としてやってきたカッテンディーケらがここを宿舎としたのです。
西應寺は、徳川家の菩提寺(先祖代々のお墓があるお寺)である増上寺の「子院(末寺)」です。
信頼できるお寺だからこそ、重要な外国公使の接待という大役を任せたのかもしれないですね。


東海道に戻ってまた道沿いにしばらく歩きます。(広い道路なので、わからなくなることはないと思います。)
駅に近づいてきたなーと感じていると、左手に「江戸開城西郷南洲勝海舟會見之地」の碑が現れます。
ここは勝海舟と西郷隆盛が江戸無血開城を取り決めた会談が行われた薩摩藩屋敷がかつてあった場所。
碑は少しだけ奥にあるので、「港芝四郵便局」の前を通ったら、左の方気を付けてみて見過ごさないように要注意です。

少し歩くとJR田町駅に着きます。都営地下鉄三田駅もあります。

さらに少し歩くと「札の辻スクエア」のビルが見えてきます。
こちらの1階に「港区観光インフォメーションセンター」があります。
東海道関係のパンフレットはおそらくないですが、ちょっと情報収集しても良いかもしれません。

「札の辻スクエア」の前の信号を渡ると「札の辻」の案内板があります。
「札の辻」という名前は、幕府が庶民に出す決まりごと(法令)を書いた板、「高札(こうさつ)」が立てられていたことに由来します。
ここは人通りが非常に多かったため、幕府の威厳を示し、ルールを周知させるのに絶好の場所でした。
また札の辻にはかつて、江戸を守るための「枡形(ますがた)」という直角に曲がる道と、大きな門がありました。
前回紹介した新橋にある豪華な「芝口御門」とはまた別に、ここは江戸の正面入り口として、軍事的にとても重要なチェックポイントでした。

札の辻には、交差点をまたぐ巨大な歩道橋がかかっています。
実はここ、現代の「絶景スポット」なのです。
歩道橋の上からは、真っ直ぐに伸びる第一京浜の先に東京タワーが真正面に見えます。

進行方向右側に戻ってまた少しだけ歩きます。
ビルとビルの間にこの階段があったらのぼってみましょう。

上までのぼると日本史上最大級のキリシタン処刑が行われたとされる「元和キリシタン遺跡」があります。
元和九年(1623)三代将軍家光の命により、この場所で50名ものキリシタンが火刑に処されました。
当時、ここは智蓮寺の丘の中腹で、江戸城からも、そして海をゆく船からもよく見える場所だったようです。
幕府は、多くの人が行き交う場所で処刑を行うことで、「キリスト教を信じてはならない」という強い警告を庶民に示そうとした訳です。
寛永十五年(1632)にもここでキリシタンらが処刑されています。


少し暗い気持ちになった所で、次は進行方向左側に渡って歩いていきます。
すると巨大な石垣が突然現れます。これが、国指定史跡にもなっている「高輪大木戸跡」です。
道の両側に石垣を築き、夜は木戸を閉めて通行できないようにすることで、治安維持と交通規制の機能を持っていました。
高輪大木戸は宝永七年(1710)に芝口門に建てられたのが起源で、享保九年(1724)にここに移されたようです。天和二年(1682)には札の辻から高札場も移され、江戸の六大高札場の一つでした。


引き続き歩いていくと右側に上がっていく緩やかな坂道があります。
この先には赤穂義士が眠る「泉岳寺」があります。
主君・浅野内匠頭の仇討ちを果たした赤穂浪士(赤穂義士)四十七士が、吉良邸から歩き続け、主君の墓前へ吉良の首級を捧げたのがこのお寺。
その後、彼らもこの地で切腹し、今も主君と共に静かに眠っています。
討ち入りの日にあたる12月14日の「義士祭」は盛り上がるので、機会がありましたら是非!


東海道に戻ると「JR高輪ゲートウェイ駅」があります。
JR山手線で49年ぶりの新駅となった「高輪ゲートウェイ駅」ですが、JR東の駅ではあまり見かけない「明朝体」が使われています。

東海道に戻ってまた歩いていくと今回のゴールである品川駅 に到着です。
意外に「高輪ゲートウェイ駅」と「品川駅」は近いですよ!お疲れさまでした!

