東海道五十三次を自分の足で歩く、女子ひとり旅。 第5回目となる今回は、立会川駅から京急蒲田駅までの区間を歩きます!
品川宿の賑やかな雰囲気を抜け、いよいよ武蔵国(東京都)から東海道の難所と言われた六郷川(多摩川)の手前、川崎宿の手前までを進む今回のルート。
「宿場と宿場の間って、何もないんじゃない?」 ……なんて思われるかもしれないですが、実はこの区間、めちゃくちゃ見どころが濃いんです!
若き日の坂本龍馬が黒船来航の警備のために駆けつけたという「龍馬ゆかりの地」や、江戸時代の歴史を今に伝える少しスリリングな史跡「鈴ヶ森刑場跡」など、歴史好きならずとも足を止めたくなるスポットが次々と現れます。
それでは、カメラを片手に、のんびり歴史散歩へ出かけましょう!
京急立会川駅を出て東海道歩きをスタート

改札を出たら、まずは左手へ。 駅前には、どこか懐かしい雰囲気が漂う「立会川駅前通り繁栄会」の商店街が広がっています。(写真は商店街出口から駅の方向に向かって撮影しています)
少し歩いていると、さっそく見えてくるのが……

「坂本龍馬像」です。
実はこちらの龍馬像、高知県の桂浜にある有名な龍馬像の「20歳の頃」を再現したものなのだそう。
高知の龍馬像はブーツを履いていますが、ここの龍馬像はまだ二十歳前ということで「泥草履」を履いているのが特徴なんです。
「なぜ坂本龍馬像が立会川にあるの?」
そう思う方も多いですよね。
実は、龍馬の波乱万丈な「幕末の旅」は、まさにこの立会川から始まったと言っても過言ではないんです!
きっかけは嘉永6年(1853)。
当時19歳だった龍馬は、剣術の修行のために土佐から江戸へやってきていました。
そんな時、日本中を揺るがす大事件が起こります。そう、ペリーの黒船来航です。
大慌てになった江戸幕府は、有力な諸藩に「江戸の海を守れ!」と沿岸警備を命じます。
そこで土佐藩は、たまたま立会川の河口付近に持っていた自前の土地(下屋敷)を利用して大急ぎで大砲の陣地を築き、江戸湾を警護する国家プロジェクトの一翼を担うことになりました。
この「国を守る」という重大な任務のために動員された若者たちの中に、なんと剣術修行中だった龍馬も含まれていたのです。


商店街には大正13年(1924)創業の海苔とお茶の老舗「ヤマキいとう」があります。
実は、この品川や大森、羽田といった東京湾の沿岸エリアは、江戸時代から昭和の中頃まで「高級品としての江戸前海苔(品川海苔)」の一大産地だったんです。
また2012年にフジテレビ「月9」枠で放送された松本潤さん主演のドラマ『ラッキーセブン』の舞台となる「北品川ラッキー探偵社」のロケ地もあります。
このドラマを全く観てないもので、この床屋さんが舞台なのかなーと思って写真撮ったのですが、2階みたいですね。。。看板よく見たら「2階がラッキー探偵社の事務所でした」とちゃんと書いてありました。

本格的に東海道を歩き始める前に、まずはその歴史の舞台となった新浜川公園にある「浜川砲台跡」へ立ち寄ってみましょう!
商店街を出て右に曲がると旧東海道に戻れますが、橋を渡らずに左に曲がって川沿いに歩いていきましょう。

道に従ってさらに左に曲がって、「東京都下水道局浜川ポンプ所」を通り過ぎると、新浜川公園にたどり着きます。

江戸湾の警備のため土佐藩は浜川砲台を築き、佐久間象山塾で大砲操練を学んだ20歳の坂本龍馬も、浜川砲台の警護にあたったと言われています。
砲台には
・六貫目ホーイッスル砲(一門)
・一貫目ホーイッスル砲(二門)
・鉄製五貫目砲(五門)
が配備されていました。写真は六貫目ホーイッスル砲を復元したものです。

これは黒船を模した遊具?ですかね。。。


先ほどの橋に戻って、渡ります。
この橋の名前は「浜川橋」。
しかし、地元ではもう一つの名前、「涙橋」の呼び名で広く知られています。
慶安4年(1651)、この少し先に江戸三大刑場の一つ「鈴ヶ森刑場」が作られました。
当時、罪人は罪を世間に見せしめるため、裸馬に乗せられて江戸の街から刑場へと連行されていったそうです。
この橋のたもとは、密かに後を追ってきた家族や親族が、罪人との「本当に最後の別れ」を告げる場所でした。
これ以上は一緒に進むことが許されず、お互いに涙を流しながら今生の別れを惜しんだことから、いつしか「涙橋」と呼ばれるようになったといいます。
切ない余韻を感じつつ、私たちは罪人たちが最後に歩んだ道と同じルートをたどり、いよいよ旧東海道の本筋、「鈴ヶ森刑場跡」へと向かいましょう。
橋を渡ってそのまま道沿いに歩いていきます。


「鈴ヶ森刑場跡」までは特に見どころもなく、ひたすら歩きます。
黙々と足を動かしていると、左手に「鈴ヶ森中学校」が見えてきました。
「お、学校の名前に『鈴ヶ森』って付いてる!ということは、目的地はもうすぐそこなはず。」……なんて思いながら、なおもテクテクと歩きます。


現在は第一京浜(国道15号線)沿い、木々に囲まれた小さな敷地に「鈴ヶ森刑場跡」は、ひっそりと佇んでいます。
ここは江戸時代の初期(1651年)に、江戸の北にある「小塚原」と並ぶ、大規模な処刑場(御仕置場)として幕府によって作られました。明治の初めに廃止されるまでの約220年間、この場所で多くの人々が命を落としたとされています。
刑場跡にある大きな石碑に、独特のひげのような文字で「南無妙法蓮華経」と深く刻まれているのを見ることができますが、これは江戸時代(1698年)に犠牲者を悼んで建てられた供養塔です。


敷地内に足を踏み入れると、当時をリアルに物語る貴重な遺構が今も残されています。
- 八百屋お七の火炙りの鉄柱: 恋人に会いたい一心で放火事件を起こし、悲恋のヒロインとして語り継がれる「八百屋お七」が処刑された際に、鉄柱を立てたとされる土台の石。
- 丸橋忠弥の縛り地獄(大コウチ石):丸橋忠弥は、宝蔵院流という槍術の天才的な達人でありながら、幕府へのクーデター計画「慶安の変(由井正雪の乱)」を首謀したとして、この鈴ヶ森で最期を迎えた浪人。罪人を縛り付けるために使われたという、四角い穴のあいた重々しい石柱。
一見すると少し怖いスポットに思えるかもしれませんが、ここは単に罪を裁くだけの場所ではなく、江戸幕府が「犯罪を起こすとこうなるぞ」と人々に見せしめ、江戸の治安を力で維持するための重要な政治的拠点でもありました。
こうした華やかな江戸文化の裏側にあった、厳格で容赦のない歴史の跡を目の当たりにすると、少し胸が締め付けられるような気持ちになりますが、この刑場跡のすぐ隣には、そんな人々の魂を優しく包み込む場所があります。
それが、処刑者の供養のために隣接して建てられた「大経寺」です。
江戸時代にここで処刑された身寄りのない人々(無縁仏)を供養するためにお堂が建てられたのが始まりで、明治時代に刑場が廃止された後も、名を変えながら形を変え、今も変わらずこの場所で亡くなった多くの命を弔い続けています。

大経寺を後にして、ふたたび旧東海道のルートへと戻ります。
ここからは、頭上を走る首都高速(1号羽田線)を右手に眺めながら、その高架に沿うような形で歩みを進めていく感じです。

しながわ水族館の前を通り過ぎます。
(規模が大きすぎず疲れずに回れるアットホームな水族館なので、時間に余裕があれば立ち寄るのもおすすめ)
少し歩くと歩道橋があるので、反対側に渡っておきましょう。
歩道橋渡ったら「大森海岸駅」なので、短めに歩きたい方はここで終了でも良いと思います。

大森海岸駅を通りすぎて、少し歩くと「磐井神社」があります。
創建はなんと敏達天皇2年(573)とも伝えられる、武蔵国(現在の東京都・埼玉県など)でも有数の古社です。
江戸時代には徳川将軍家からも厚く信仰され、東海道を行き交う旅人たちが旅の安全を祈願して立ち寄る、まさに「旅の守り神」のような場所でした。

境内ではなくて歩道のところに「磐井の井戸」があります。
元々は境内にありましたが、東海道(現・第一京浜国道)の拡幅のために境内が狭くなったため、歩道上に遺存することになったようです。
霊水や薬水と称され、東海道を往来する旅人に利用されていました。
「この井戸水を飲むと、ここが正しければ清水、心邪ならば塩水」という言い伝えがあります。

そこからひたすら歩きます。ひたすら歩くので「この道であっているんだろうか」と不安になりますが、ひたすらまっすぐです。平和島駅の前も通り過ぎていきます。

「大森警察署前」の交差点でY字に分かれるので、「どっち!?」となりますが、右側に進んでいきます。
少しすると「大森町駅」入口があります。


「磐井の井戸」以降、あまりに東海道の見どころが無さ過ぎて、大森町駅前から少し歩いて寄り道しました。
向かったのは、駅から少し歩いた場所にある「大森三輪公園」。
一見すると地域に馴染んだ普通の公園なのですが、実は園内に、大田区指定文化財というものすごい歴史のお宝がひっそりと保存されているんです。
それがこちら、「東海道一本燈籠台石(東海道常夜燈)」です!
当時、富士山を信仰する「富士講(ふじこう)」と呼ばれるグループの人たちが、東海道を行き交う旅人たちの目印(道しるべ)になるようにと、この常夜燈を建てました。
よく見てみると、残された台石には、富士山が誕生したという伝説を描いた見事な彫刻が施されていて、当時の人々の信仰心の厚さが伝わってきます。
実は大正12年の関東大震災でバラバラに壊れ、あちこち移転を繰り返した悲しい歴史があります。
しかし、区の教育委員会に寄付されたのちに見事修復・復元!
「東海道沿いに置いてくれればよいのに…」と思いつつも、旧東海道(大森町駅入り口)に戻り、ゴールの京急蒲田駅を目指します!

しばらく歩いて行くと、今度は「梅屋敷(うめやしき)駅」の前を通り過ぎます。
「梅屋敷って、なんだか風情があって珍しい駅名だよな〜」なんて思いながら通り過ぎますが、実はここも旧東海道の歴史に深〜く関係している場所なんです。少し歩くと、その答えとなる場所があります。

少し歩いていくと、道挟んで反対側に「大田区総合体育館」があります。
自分はバスケの試合で何回かこちらに来たことがあります。

「大田区総合体育館」の向かい側には「聖蹟蒲田 梅屋敷公園」があります。
駅名にもなっている「梅屋敷」ですが、そのルーツは江戸時代、東海道を旅する人なら誰もが知る超人気のお休み処(休憩所)でした。
元々は和中散という道中の常備薬を売る売薬所の敷地に梅の木などの花木を植え、東海道の休み茶屋を開いたのが始まりだと言われています。
その美しさは口コミで広がり、あの葛飾北斎や歌川広重の浮世絵にも描かれたほど!
十二代将軍 徳川家慶も鷹狩の休み所に利用したようです。
さらに明治時代になると、明治天皇も大変気に入られ、なんと9回もこの地を訪れて梅を観賞されたという、とてつもない歴史を持つ名所なんです。

「聖蹟梅屋敷公園」のように、名前に付いている「聖蹟」とは、天皇陛下が行幸(お出かけ)された場所、ゆかりのある土地という意味を持つ言葉です。
天皇陛下がこれほど何度も同じ民間のお休み処に足を運ばれるのは、当時としては本当に異例中の異例のことでした。
そのため、のちに「明治天皇が何度も訪れた、とても名誉で歴史的な場所(=聖なる足跡が残った場所)」という意味を込めて、頭に「聖蹟」という特別な言葉が付けられるようになったのです。


2月中旬に訪れたので、梅が咲き始めていました。

「聖蹟蒲田 梅屋敷公園」を出てしばらく歩くと、今回のゴール「京急蒲田駅」に到着します。
お疲れ様でした!

