【東海道五十三次を歩く旅:予習編】第1回 日本橋—浮世絵の風景と江戸随一の繁華街の歴史

東海道をはじめとする五街道のすべての起点であり、江戸のシンボルでもあった「日本橋」。これから始まる長い旅路に胸を膨らませた旅人たちで、当時の日本橋は独特の熱気に包まれていました。今回は、浮世絵に描かれた光景や、今も歴史を伝える周辺のスポットについて予習していきましょう。


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歌川広重が描いた「日本橋」:夜明け前の慌ただしい旅立ち

歌川広重の名作『東海道五十三次』の第一作目に描かれているのが、この日本橋です。

浮世絵をよく見ると、まだ薄暗い時間帯であるにもかかわらず、多くの人々が行き交う活気ある様子が描かれています。
当時の旅人たちは、1日に歩く距離を少しでも長くし、宿場町での滞在経費を抑えるために、まだ夜が明けない「七つ(季節により異なりますが、夏場なら午前4時ごろ、冬場なら午前2時30分ごろ)」の合図とともに江戸を発ちました。

絵の左手前には、日本橋の北詰東にあった「魚河岸(うおがし)」で仕入れたばかりの新鮮な魚を、盤台(木製のたらい)に入れず、そのまま天秤棒に掲げて威勢よく運ぶ魚屋の姿が描かれています。
そして右奥に見えるのが、江戸の食を支えた日本橋北詰の魚河岸そのものです。


「1日に千両の金が落ちる」と称された巨大市場・魚河岸

日本橋川の河岸には巨大な魚市場(魚河岸)が広がり、毎日多くの漁船が頻繁に行き来していました。
現在、この地には「日本橋魚市場発祥の地」の記念碑がひっそりと佇み、往時の賑わいを今に伝えています。

江戸の町では、莫大な経済効果を生む場所として1日に千両の金が落ちる(消費される)場所が3か所あると言われていました。
それが、華やかな文化を発信した「芝居町(歌舞伎小屋)」、不夜城と呼ばれた「吉原(遊郭)」、そして江戸っ子たちの胃袋を支えたここ「魚河岸」だったのです。

この魚河岸は大正十二年(1923)の関東大震災後に築地に移り、東京都中央卸市場へと発展しました。


魚河岸の忙しさから生まれた味:現存日本最古の弁当屋「弁松」

この活気あふれる魚河岸の文化から、今に続く名店が誕生しました。
それが、現存する中では日本最古の弁当屋として知られる「弁松(べんまつ)」です。

時は文化7年(1810)、越後生まれの樋口与一という人物が、日本橋の魚河岸に「樋口屋」という食事処を開いたのが始まりでした。ボリューム満点のご飯が評判を呼び、店は大繁盛。
しかし、時間との勝負で働く魚河岸の人たちは、せっかくの料理が出されても、すべて食べ切る前に仕事へ戻らなければならないこともしばしばでした。

そこで店側が、残った料理を経木や竹の皮に包んで持ち帰れるようにしたところ、これが大好評となります。
次第に「最初から持ち帰り用として作ってほしい」という注文が増えていきました。これが、のちの弁松の折詰弁当のルーツです。

その後、二代目・竹次郎の時代には最初から竹皮で包んだお弁当を本格的に販売するようになり、三代目・松次郎の代で食事処から完全にシフト。
現在まで伝統を受け継ぐ、日本で最も歴史のあるお弁当屋さんとなりました。


歴史の足跡:青い目のサムライ「三浦按針屋敷跡」

日本橋の歴史を語る上で欠かせないのが、国際色豊かな歴史の足跡です。
日本橋北詰には、徳川家康に外交顧問として重用されたイギリス人航海士、ウィリアム・アダムス(日本名:三浦按針)の屋敷地が与えられていました。

彼がこの地に居を構えたことから、周辺は昭和の初めごろまで「安針町」という地名で呼ばれており、現在もその歴史を留める碑が建てられています。


日本一の繁華街:江戸の流通経済を支えた大店と老舗

日本橋は、まさに江戸の経済・商業の中心地でした。江戸湾にほど近い隅田川の河口には多くの河岸が集まり、日本橋周辺には流通を担う問屋や広大な敷地を持つ「大店(おおだな)」が軒を連ねていました。

その代表格が、現代の日本橋三越の前身となった「越後屋呉服店」です。
越後屋をはじめとする名だたる大店や老舗がずらりと並ぶ日本橋は、名実ともに「日本一の繁華街」として栄華を誇っていました。


まとめ

旅の出発点である日本橋は、単なる橋ではなく、江戸の経済、食文化、そして人々のエネルギーが凝縮された、日本で最もエネルギッシュな場所でした。浮世絵に描かれた夜明けの風景に思いを馳せながら、東海道五十三次の第一歩を踏み出してみましょう。

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