徒歩でつなぐ東海道五十三次のひとり旅、今回はついに「江戸(武蔵国)」を脱出して「神奈川(相模国)」へと突入する「第6区」を歩いてきました。
今回のスタートは京急蒲田駅。
都会の喧騒を抜け、かつて旅人たちが渡し船で多摩川を渡った「六郷の渡し」の歴史に思いを馳せながら、川崎宿(川崎駅)を目指します。
「東京と神奈川の県境って、歩いて渡るとどんな景色なんだろう?」 そんな好奇心を胸に、一歩一歩踏み出した女子ひとり歩き旅の様子を、リアルな街の空気感と一緒にお届けします!
京急蒲田駅東口を出て東海道歩きをスタート


東口を出たら右に向かって車道に沿ってひたすら歩きます。

京急雑色駅入口を通り過ぎた後くらいまでには反対側に渡っておきましょう。

「この大きな道がずっと旧東海道なんでしょ~」と余裕をこきたくなるけど、途中から横に並行する細い道が旧東海道になので、要注意です!
「東六郷三丁目」の交差点を通りすぎたら、二番目の曲がり角を曲がって並行する道を通っていきましょう。


しばらく行くと「六郷神社」があります。
実はここ、名だたる天下人たちが崇敬を寄せた、ものすごい歴史を持つ神社なんです。
・源頼朝の命で建てられた社殿
奥州征伐の勝利に感謝した源頼朝が、あの梶原景時に命じて社殿を造営させたという熱い歴史があります。境内にある太鼓橋や大きな手水石は、なんとこの時に頼朝が奉納したものだそう!
・徳川家康と歩んだ江戸時代の歴史
江戸時代になると、徳川家康からも厚い信仰を受けました。家康から領地(朱印地)を授かっただけでなく、慶長5年(1600年)に多摩川の「六郷大橋」が完成した際には、家康の祝いの言葉とともに、神社の神輿を出して華やかに渡り初め(開通式)を行ったという驚きのエピソードも!


神門前の神橋(太鼓橋)…伝梶原景時寄進
手水石…伝源頼朝寄進


「御嶽講社」と「六郷講社」の文字が刻まれた石
これらは、かつてこの地域の「講(同じ信仰を持つ人々のグループ)」が、神社を支え、熱心に信仰していた証です。
- 「御嶽講(みたけこう)」とは?
これは、長野県と岐阜県の県境にある霊峰・木曽御嶽山を信仰する人々の集まりです。特に江戸時代中期以降、関東地方を中心に「御嶽信仰」が大流行しました。 - なぜ六郷神社にあるの?
当時の人々にとって、はるばる木曽の御嶽山までお参りに行くのは一大イベント(そして大旅)でした。そのため、地元の六郷周辺でも仲間(講社)を集め、旅費を出し合って代表者を送り出したり、地元の神社(六郷神社)に御嶽山の神様を勧請(かんじょう:神様を分けて迎えること)してお参りしたりしていました。 - 「六郷講社」とは?
こちらは、まさに六郷神社の地元・六郷の氏子(うじこ)や崇敬者たちが結成した、神社を支えるための中心的なグループ(講社)です。
江戸時代から明治時代にかけて、神社の大がかりな修繕や、お祭りの神輿(みこし)の渡御、特別な行事を行う際には、この「六郷講社」の人々が資金を出し合い、力を合わせて神社を盛り上げました。

旧六郷橋の親柱もあります。
慶長五年(1600)に徳川家康が架設した「六郷大橋」は貞享五年(1688)の洪水により流失して以来、168年間渡し船で六郷と川崎の間の川を渡っていました。
明治に入ると地元名主や有志が共同で木橋を架けますが、洪水で流失。
その後、東京府と神奈川県が共同で仮で架けたのが、この親柱の木造橋です。
大正にこの橋はまた流失してしまうので、次は鉄筋コンクリート製のタイドアーチ式の「六郷橋」が建てられました。この橋の遺構もこの後見に行きます。

先ほどの神社の入口の脇に「東海道跡」の石碑がさりげなく建っているので、お見逃しなく!

こんな説明書きがありました。
先ほど大きな道から六郷神社の前の細い道に入ってきましたが、この道が元々の旧東海道の幅を残しているってことですねー


本来はこのまま細い道(旧東海道)を歩いて行く訳ですが、橋を渡る前に反対側にある場所に寄り道をしたいので、少し歩いたら大きい道の方に戻って反対側に渡ります。

坂を上がっていく車道の右側の道を進んでいくと、「宮本台緑地」という公園みたいな場所にたどり着きます。

この奥にあるゲートみたいなものが、木造橋から架け替えられた鉄橋の「六郷橋」です。
横にある石の柱が親柱です。
木造橋から鉄橋への架け替え計画は、木造橋が流失した翌年の大正三年に始まり、大正九年に東京府と神奈川県が工事費用を相互負担することで着工決まりました。
そして大正十四年に開通。交通量の激増により、昭和五十九年に現在の「新六郷橋」に架け替えられました。




車道向かって反対側にある神社に立ち寄りたいのですが、渡ったら危ないので、螺旋階段みたいなものを上って向かいます。


多摩川の手前、六郷橋のたもとにある「北野天神」に着きました。
通称「止め天神」は、かつてこの地で、徳川8代将軍・吉宗の乗った馬が暴走した際、天神様の加護で落馬を止めたという伝説が名前の由来です。
「落馬を止めた」=「落ちない」という意味から、受験シーズンには多くの受験生が合格祈願に訪れることで知られています。
また、落馬だけでなく「病気や痛みを止める」「不運を止める」など、身に降りかかるあらゆる悪事を止めてくれるお守り処としても親しまれています。

境内には、それぞれの願いを込める「平癒塚」「止め塚」「学成就塚」があります。


「六郷橋」渡っていきます。
晴れの日に歩くと気持ちが良いですが、風が結構強く吹くので、髪の毛ぐちゃぐちゃになりました。

神奈川県川崎市に突入!

橋の終わり付近に舟のモニュメントがありました。


橋を渡り切って反対側の橋の麓に「明治天皇六郷渡御碑」があります。
ここ六郷の渡しは、明治元年(1868)、京都から東京へと向かう弱冠16歳の明治天皇が渡った歴史的な場所でもあります。
当時はまだ橋がなかった多摩川。
天皇の巨大な行列を無事に渡すため、なんと川に23艘もの船をずらりと横一列に並べ、その上に板を敷き詰めた臨時の「舟橋」が架けられました。
田中本陣で昼食を召し上がった天皇が、この特製の動く橋を渡ってついに「東京」の地へと足を踏み入れた瞬間は、新しい時代の幕開けを象徴する大イベント。
当時の大田区側・川崎側は、一目見ようとする群衆でものすごい熱気に包まれていたそうです。


最初に橋を降りた側に戻って、道なりに右に下っていくと「六郷の渡しと旅籠街」の案内板があります。
旅籠街で有名だったのが、「万年屋」とそこで提供していた「奈良茶漬け」です。
万年屋は、もともとは小さな一膳飯屋でしたが、この「奈良茶飯」があまりに美味しいと評判を呼び、やがては大名も昼食に立ち寄るほどの宿場町ナンバーワンの茶屋(のちに旅籠)へと大出世を遂げたお店です。
幕末にはアメリカ総領事のハリスなども宿泊しました。
あの『東海道中膝栗毛』の弥次さん・喜多さんもここで足を止め、大喜びで「奈良茶飯」を食べたというエピソードが残っているほど、旅人たちの旅情と体力を支えた大人気ソウルフードでした。

道の反対側らへんに「東海道川崎宿史跡めぐり」の案内板がありました。
反対側(右側)の道に戻りましょう。


道に「川崎宿にきたなー」と思わせる装飾などが増えるので、テンションが上がります!
この辺りが「新宿」と呼ばれていたようですが、案内板でもなぜ新宿と呼ばれていたのかが分かってないのが、ちょっとウケました。

少し歩いていくと「田中本陣」の案内板があります。
川崎宿には本陣が3軒(田中本陣、佐藤本陣、中の本陣)ありました。
※中の本陣は田中本陣と佐藤本陣の間にありましたが、宿場の規模に対して3軒での経営が成り立たなかったため、江戸時代後期には廃業していたとされています。
最も東、江戸に近い方にあった為、「下の本陣」とも呼ばれていました。
「本陣」とは?
本陣は、江戸時代に公認された、大名や公家、幕府の役人などが宿泊・休憩するための公認指定宿です。
宿場町の名主や旧家など、地元で最も力があり、信頼されている有力者の邸宅が指定されました。
宿泊業といっても、本陣の主人は大名から宿泊代をもらうのではなく、基本的には「御加増」などの特権や、お礼としての「下賜金」を受け取っていました。
アメリカ駐日総領事ハリスが田中本陣の荒廃ぶりを見て、宿を万年屋に変えたのは初めて知りました。
田中休愚については、下の川崎宿の予習記事で触れているので、是非お読みください。



反対側(左側)に渡っておきましょう。
行った時工事中だったので分かりにくいのですが、大正二年創業の和菓子店「東照」さんに立ち寄ります。

「東照」さんではなんと現代風に再現された「奈良茶飯風おこわ」を購入できます。
店内でも食べれるのですが、私は食事の約束がその後にあったので、持ち帰り用(冷凍)を買いました。
食べた感想は別途記事にする予定です。

「東照」出たらすぐに「東海道かわさき交流館」があります。
入場無料ですし、展示内容も結構良いので、是非立ち寄ってください!
川崎宿の御宿場印もこちらで購入できます。

中を少し紹介!1階には「万年屋」が再現されてます。

川崎宿の模型もあります。


2階の記念撮影スポットでは衣装を無料で貸してくれるのでお勧めです。
この日はすっぴんで行ってしまったので、マスクを着けたまま撮影しました。

「東海道かわさき交流館」を出て、反対側に渡って歩いていると「川崎宿の由来」の案内板があります。


さらに進むとこの案内板があり、その横の建物のところに「中の本陣」の案内板があります。

反対側に渡って、セブンイレブンの所に「問屋場」の案内板があります。
「問屋場」とは?
問屋場は、宿場町における公的な業務(継立事務)を取り仕切る役所です。
主な仕事は、幕府の命令によって移動する役人や大名のために、次の宿場まで荷物を運ぶ「人足」や「馬」を割り振ること。
また、幕府の緊急連絡を運ぶ「飛脚」の受付や、宿場町全体の取締りも行っていました。
宿場町のリーダーである「問屋」や、その補佐役である「年寄」がここに詰め、毎日大忙しで書類仕事や人員配置に追われていました。


この「東海道川崎宿」の石碑があったら右に進んでいくとJR川崎駅に着きます。
京急川崎駅も直通ではないですが、近くにあります。
今回はここまで!次回は川崎宿の続きから歩いていきます。お疲れ様でした!

