こんにちは!東海道女子ひとり旅の「ともも」です。
日本橋を出発し、第一の宿場町「品川宿」を抜けると、次に見えてくるのが第二の宿場町「川崎宿」です。
現在の神奈川県川崎市川崎区にあたります。
今でこそ大都市の川崎ですが、実は東海道のスタート当初、川崎は宿場町ではありませんでした。
今回は、知れば歩くのがもっと楽しくなる、川崎宿の歴史とドラマについてご紹介します!
実は「後から追加」された宿場町?川崎宿の基本データ


慶長6年(1601)、徳川幕府が「宿駅制度」を定めて東海道を整備したとき、実は川崎はまだ宿場として認められていませんでした。
品川宿の次は、いきなり神奈川宿(横浜市)だったのです。
しかし、品川〜神奈川の間が長すぎて旅人も人足もクタクタに……。
そこで1623年、のちに川崎宿となる地域が正式に宿場町として追加されました。
江戸後期には、以下のような規模にまで発展します。
- 構成する村: 新宿(しんじゅく)、砂子(いさご)、久根崎(くねざき)、小土呂(ことろ)の4つの村
- 街並みの長さ: 約1.5km
- 宿場の規模: 人口2,433人、本陣2軒(田中本陣・佐藤本陣)、脇本陣0軒、旅籠(はたご)72軒、問屋場1軒
脇本陣がない代わりに、旅籠が72軒もある活気ある宿場町だったことが伺えますね!
宿場を潤した「川崎大師」への篤い信仰


川崎宿の大きな賑わいに一役買ったのが、お大師様として親しまれる「川崎大師(平間寺)」の存在です。
江戸時代、庶民の間では社寺参拝が大ブーム。
川崎宿からは川崎大師へと続く参道が伸びており、多くの庶民が参拝のためにこの宿を訪れました。
参拝客が宿場に立ち寄ってお金を落とすことで、川崎宿はどんどん潤っていったのです。
現代でいう「観光スポット直結の駅」のような役割を果たしていたんですね。
多摩川の難所!「六郷の渡し」と伝説の「舟橋」

川崎宿の手前には、大きな多摩川が流れています。ここを渡るのが「六郷の渡し」です。
慶長5年(1600)に幕府によって六郷大橋が架けられたのですが、大雨のたびに洪水で流されてしまいました。ついに元禄元年(1688)の大洪水以降、幕府は「もう橋を作るのはやめよう!」と諦め、代わりに渡し舟で川を渡る制度にしたのです。
🌟ここが旅のロマン!臨時の「舟橋」エピソード


普段は舟で渡る多摩川ですが、特別な時には「舟橋」という臨時の橋が作られました。
小さな舟をずらりと横一列に並べて結び留め、その上に板を張って即席の橋にするのです。
- 将軍吉宗に献上される「象」が渡るとき
- 明治天皇が京都から江戸へ向かわれるとき
など、歴史的な大移動の際にはこの舟橋が架けられました。
象が舟の上の橋をパカパカと渡っていく姿を想像すると、なんだかわくわくしますよね!
川崎宿の救世主!田中休愚(きゅうぐ)の活躍

一見、賑わっているように見える川崎宿ですが、実は大ピンチの時期がありました。
宿場町には、幕府の公用旅行者のために、荷物を運ぶ馬や人足(労働力)を常に用意しておく「伝馬制度」という重い負担がありました。川崎宿は、この負担が重すぎて人足の定数を維持できなくなるほどの窮状に陥ってしまったのです。
このピンチを救ったのが、田中本陣の主人であった田中休愚(たなかきゅうぐ)です。彼はのちに幕府の役人(代官)にまで大出世するほどのキレ者でした。
💡休愚の大改革:渡し舟の権利をゲット!
当時、多摩川の「六郷の渡し」の運営権利とそこから生まれる収入は、対岸の八万塚村(現在の東京都大田区)が持っており、川崎宿には1円も入りませんでした。
そこで休愚は幕府に必死の交渉を行い、「渡し舟の運営権利を川崎宿に移してもらう」ことに成功します!
この渡し舟、武士は無料でしたが、一般の庶民は有料でした。
ちょうど江戸中期以降、庶民の旅ブーム(川崎大師参拝など)が到来。
庶民の旅人が増えれば増えるほど、川崎宿に入る渡し舟の収入はぐんぐんアップ!
このおかげで、川崎宿は財政難を乗り越え、息を吹き返すことができたのです。
✨ともものまとめ
品川宿を出て多摩川を渡り、川崎宿へと入るルートは、かつて多くの旅人が川崎大師への期待に胸を膨らませて歩いた道。
そして、宿場のピンチを救った田中休愚たちの知恵と努力が詰まった歴史ロードでもあります。
現代の川崎の街並みを歩くときも、頭の中に「多摩川を渡る『六郷の渡し』の風景」や「旅人で大賑わいしていたかつての宿場町」の姿を思い浮かべると、ただの道路が特別な場所に思えてきますよね。
それでは、川崎宿のルートガイドもお楽しみに!スマホを片手に、一緒に素敵な東海道の旅を楽しみましょう!

